あじさい

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 終電に乗るべく夢中で走っていたら、道にでーんとはみ出して咲いてるあじさいに激突。急いでいたのと暗かったのとで周りがよく見えていなかったので、はじめは何が起きたかわからず、駅まっしぐらだった私の意識はビー玉がたくさん入った瓶を道でひっくり返したみたいになった。ふらふらと小走りを続けつつ振り返ると、あじさいは花びらのひとつも散らすことなく、少しの間ぐらんぐらんと揺れたのち、また夜道にはみ出し澄まし顔。わたしはあじさいのそういうところを尊敬してるし、そういうところが少し嫌いだったりもする。

 

 夏至を過ぎ、あじさいの頃も間もなく通り過ぎようとしている。梅雨が明け、夏が本当になる頃わたしは30歳になる。ひとつ年齢が上がることにはもはや特に感慨もないけれど、20代が終わるということは大きな変化に思えている。楽しみではあるけれど、ぐらんぐらんといくつかの後悔や仕方なさ、花の散るような仄かな寂しさも覚える。駆け抜けていただろうか。駆け抜けることはどんなことだろうか。駆け抜けた先に何があるのだろうか。

 

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 あじさいは散らない。梅雨が明け、夏が来て花の頃を過ぎ、色褪せてカラカラの姿になってもあじさいは散らない。首でもちょん切られないかぎり、枯れ果てて化石みたいになっても尚そこに在り続ける。わたしはあじさいのそういうところが未練たらしくて嫌いだけれど、でもそういうところがかっこいいなあと思う。

 

 夜道にはみ出して咲いているあじさいを振り返って見たとき、本当は終電なんて気にせずに立ち止まって、おもいきり泣いてしまいたくなった。あじさい、あんたは偉いなあ。花は散りゆくからこそ儚く美しいのだと思いがちだけれど、あじさいは散らなくてもあんなに美しく、あんなに儚い。わたしはどうやって生きて行けるだろうか。あじさいなんて嫌いだ。

 

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