こっち見んな、の話を聞いてよ

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 休みをとったけれど予定がなくなってしまい、昼に起きて洗濯を回して干し、宙ぶらりんのままなんとなくの化粧をして外に出た。とりあえず電車に乗って、渋谷か新宿でも行こうかと思ったけれど、それなりの人混みを想像したら気持ちが萎えてしまい、降りたことのなかった駅で途中下車した。

 それは急行の停まるような大きな駅ではないけれど、最近新しい飲食店が増えてきて雑誌に取り上げられることも多く、そのうち散歩でもしてみたら楽しいのかもしれないなと思っていた街だ。ふらふらと駅前を歩いてみると、古くからの商店も多い落ち着いた街並み。雑誌で紹介されていたような新しいお洒落な店もきちんと調和していて、ちぐはぐしていない。歩いているうちにだんだんわくわくしてきて、昼食もまだだし折角だからどこか店を探して入ってみようという気になった。 

 

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 しかしいざ探しはじめると、定休日だったり準備中だったりでなかなか入れる店がない。しばらくうろうろしてやっと見つけた営業中の店は、小さな一軒家を改装したのであろう古めかしい洋食屋だった。入り口は好き勝手伸びた鉢植えの植物で埋め尽くされ、ところどころに手作りの看板やメニュー表が見え隠れしている。ランチもやっているみたいだったので中に入ると、薄暗い店内にはテレビの音が響き渡っているのみ。全部で5席ほどのホールには客も店員も見当たらなかった。

「ごめんください」と声をかけると、「お好きな席どうぞ」としゃがれた声が返ってきた。そして奥の席の死角部分から店主らしき男がよっこいしょっと現れ、こちらをジロリと見る。男の白髪混じりの髪はぼさぼさで、伸びた前髪から鋭い目が覗いている。とても飲食店の主人には見えない彼だが、どうやらこの店をひとりで切り盛りしているらしい。私はいちばん手前のテーブルに座り、本日のランチを注文した。店主はスタスタと厨房に入っていき、そのまましばらく戻って来なかった。

 ひとりきりになってしまったホールで料理を待つ間に持っていた文庫本を広げて読もうとしたが、テレビの音がうるさくて全く集中できない。本をすぐに鞄へ戻し、ぼんやりと店内を見回してみる。狭い店内は決して散らかっているわけでもないけれど綺麗でもなく、とにかくごちゃごちゃとたくさんの物で埋め尽くされている。大量の酒瓶、ギター2本、飛行機や海外の街並みを写した額入りの写真、ランプ、フランス人形、タペストリー、動物の剥製、亀の置物、いくつもの手書きのメニュー(よく読むと洋食屋というより多国籍料理が売りの店のようだった)。壁にはなぜか無数の駄菓子も貼り付けられている。照明は暗めで、かびの匂いかわからないけれどなにか独特の匂い。でも床やテーブルは古いなりに磨かれ、そしてすべての席に箸とおしぼりがきっちりセットされている。大音量のテレビは天井付けの棚に設置されていて、最初に店主が座っていた奥の席からよく見えるようになっている。現在は釣り番組が流れ、この店にどことなく漂う不気味さをかろうじて中和していた。

 しばらくして料理が運ばれてきた。和風の大皿に盛られたオムライスに、えのきと里芋の入ったスープ、小鉢に入ったひじきの煮物と漬物のセットだった。思ったよりも和風で家庭的だ。味がどうのこうのということは特筆できない。まあ味は美味しかったとは思うが、付き合いのほとんどない親戚の家で昼食をご馳走になっているような妙なよそよそしさみたいな不穏があり、その不安が私の味覚をはじめとしたすべての感覚を支配していたため、本当に美味しかったのかどうかはよくわからない。食べられないものではなかった、というくらいの話だ。

 その不穏について、私はなるべく気にしないように、なんとかリラックスしようとしたけれど無理だった。おかしなことが多すぎて、むしろ不穏が膨れていくばかりだ。まず、ふと食べる手を休め正面を向いた時、店主がとてつもなく鋭い目でこちらをじーっと見つめていたのである。睨まれるようなことをした覚えはないので、まあおそらく客の様子や反応を見ていたのだとは思う。だから私の方も「美味しいです」と一言言えたら良かったのだと今なら思うけれど、あの時は顔を上げた瞬間に音がしそうなほどばちりと目が合って、またその視線は身を凍らせるほどの鋭さであったので、そんな台詞は喉を出かかる以前のところで封じ込められてしまった。かろうじて私に出来たことは、意味のない会釈を小さくしてからごまかすように目を逸らしてしまうことだけだ。

 目を逸らした先にはフランス人形の少女がいて、彼女もまた店主と同じようにこちらをじっと見つめてくる。なんだろう。私は緊張した。怖いので、少しのよそ見をすることも出来ず、ひたすらもくもくと食べ続けるしかない。食べることに必要な動作と感覚以外を全てシャットアウトして、テーブルの上をただ見つめ、料理をもくもくと口に運び、噛み、飲み込む。味などわからないに決まっている。機械になろうとしていたのだから。

 それでもどうしてだろう。気配は容赦なくしゃしゃり出てくる。食べることに集中し、テーブルの上の料理だけしか見ていないはずなのに、真横にある壁のあたりにちら、ちらちら、と何かの気配を感じる。私は反射的に壁を見てしまった。するとそこには、虫が、しかもあろうことか、あの某忌まわしき虫が黒き光を放ち壁を駆けているのだ。

 もう声も出なかった。身体が硬直し、私はオムライスがひとくち分乗ったスプーンを持ち上げた体勢のまましばし呆然としていた。店主よ、もしもまだこちらを見つめているならば、どうか気付いて助けてくれ。そう思って恐る恐る視線を正面に向けると、店主はもう私のことなどちっとも見ておらず、奥の席のテーブルセットをし直したり、ランプの角度を微妙に変えてみたり、特にやることはないけど客がいるのに座ってテレビを見るのもなんだかなあ、といった風に手の届く範囲のものの位置を無意味に微調整していた。フランス人形の方は相変わらず薄ら笑みを浮かべてこちらをじっと見ていたが、笑っている場合じゃないんだよと思った。なんなら今夜あんたの顔を虫が這うかもしれないというのに。それとも店主を筆頭に店じゅうの置物たちがみんなグルになって私をおちょくっているのか? はやくここから逃げたい。さっさと店を出て渋谷でも新宿でもとにかく都会に行き、洗練された内装の綺麗な店でコーヒーでもゆっくり啜りたい。私は再びテーブルの上に視線を戻し考えた。まだ皿に残っている食事をどうしようか。もう完全に食欲はなくなってしまったが、せめて右手のスプーンに乗ったひと口は食べた方がいいだろうか。

 その時だった。あの忌まわしき虫が目の前に再登場して、え? 食べないんですか? とでも言わんばかりにテーブルの上をちょろちょろっと駆け回りはじめた。私はびっくりして、思わず持っていたスプーンを皿の上にぱっと放った。スプーンはカシャーン、と大きな音を店じゅうに響かせて皿の上に落ちた。その音に驚いたのか、虫は回れ右してそそくさと引き返していったが、今度はとても驚いた顔の店主とまた目が合った。突然取り乱した私に店主も驚いたのだろう。先程の鋭い目とは一変して、今度はまるで出来たてのビー玉のようなまん丸の目でこちらをじっと見つめている。私は再び動揺した。目玉は瞼から逃げ出さんとばかりに泳ぎだし、きょろきょろと店内に溢れるあらゆる物たちの姿を捉える。さっきのフランス人形を筆頭に、亀の置物、動物の剥製、それから酒瓶の群れの中にいるシーサーやトリスのおじさん。みんなが私をじっと見ている。みんな丸い目で私を見て、どうしたの、どうするの、と目で訴えてくる。

 食事に行って、こんなに居心地の悪いことなんて初めてだと思った。居心地の良し悪し以前に、生きた心地がしない。悪い夢でも見ているのかも。夢ならば一刻もはやく目覚めたいし、現実ならば逃げ出したい。さっさと会計をしようと伝票を手に取ったとき、ああこれは醒めて見る悪夢なのだと本当に思い知った。机の端に立ててあるメニュー冊子の陰から、奴がひょっこりと顔を出してこちらを覗いていたのである。奴の目の位置的にも別にこちらを見ているわけではないのかもしれないけれど、いかにもこちらの様子を伺っています、といった感じの佇まいだった。私はこの短時間で心が強くなったのか、あるいは死んだのかわからないが「怖い」「びっくり」という気持ちはもはや起こらなくて、単純にイラッとした。こっち見んなよ。みんなしてジロジロこっち見んな!

 店主に1000円札を投げるように渡して逃げるように店を出た。店主はとても和やかな声で「どうもありがとうございました」と言った。店の外の空気は清々しく、街並みはのどかだった。振り返ってもさっきの店など存在しなくて、古い花屋かクリーニング屋かなにかがぽつんとあるだろうと願いながら、振り返らず一目散に駅へと向かった。そのあと渋谷に行き、最近オープンしたらしいピカピカのスタイリッシュなカフェでめちゃくちゃ休憩した。

 

おまけ↓ (ラスボスを図示したもの)

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ひたすらに捨てられていたカセットテープのケース↓

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